テレビの演芸番組などで長年活躍した人気落語家の三遊亭円楽さんが30日、肺がんのため亡くなった。72歳だった。

 

三遊亭円楽さんは、1950年に東京で生まれ、青山学院大学在学中に五代目三遊亭円楽さんのもとに入門し、「楽太郎」を名乗って落語家の道に進みました。

 

早くから話芸が高く評価され、27歳の時に民放の演芸番組「笑点」のメンバーに抜てきされると、毒舌のキャラクターで親しまれ、中でも桂歌丸さんとの掛け合いは長年にわたり番組の名物となりました。

 

テレビでの活動とともに、精力的に独演会を重ね、古典落語を独自にアレンジした演目などで人気を集めて31歳で真打に昇進しました。

 

その後、先代の引退を受けて、還暦を迎えた2010年に、六代目「三遊亭円楽」を襲名しました。

 

2018年には、初期の肺がんであることを公表し、その翌年には脳に腫瘍が見つかるなど、治療を続けながら入院と高座への復帰を繰り返していました。

 

所属事務所によりますと、円楽さんは30日、肺がんのため亡くなったということです。

 

三遊亭円楽さんが亡くなったことについて、日本テレビの演芸番組「笑点」の大喜利で共演したメンバーがコメントを出しました。

 

林家木久扇さん

「訃報に接し、突然なことなので悲しみというより…表現の仕様がありません。私のことを『おじさん』と格別に呼んでくれていたお付き合いでした。がっかりです…安らかにおやすみ下さい」。

 

三遊亭好楽さん

「先程会って来ました。いい顔してました。開口一番は『なんで俺より先に逝くんだ』でした。俺より四つも若いんだよ。早すぎるよ。笑点でも落語界全体でも本当にお世話になりました。博多落語祭り、札幌落語祭り等々沢山の仕掛けをして動き回ってました。やっと休めるね。ご苦労さまでした。心よりお悔やみ申し上げます」。

 

三遊亭小遊三さん

「気丈な人だから必ず復帰してくれると信じてましたが…残念です。笑点の世話役で公私ともにお世話になりました。またゴルフ仲間でもあり、楽しい思い出がたくさんあります。まだちょっと信じられません」。

 

春風亭昇太さん

「円楽師匠の訃報にふれ言葉もありません。倒れられてからも笑点の収録に遊びに来られていて、みんなで軽口を交わした時が最後になってしまいました。とても真っ直ぐな方で、博多天神落語まつり等、数々の落語イベントを企画されるなど、落語にも真剣に向き合う姿が忘れられません。先日も国立演芸場で復帰の高座を務めたばかりで、近いうちに楽屋でお会い出来るものと思っていただけに、とても残念です」。

 

林家たい平さん

「ラジオ収録途中に入ってきた、突然過ぎる訃報に全く受け止められないのが今の気持ちです。強い気持ちを持っている師匠でしたので、必ず戻って来てくださると信じていました。あまりにも早すぎます、あまりにも突然過ぎます。もっと色んな話しをしたかったですし、教えてもらいたかった。落語を愛し、笑点を愛し、本当に優しい師匠でした。私が笑点に入ってから常に隣に円楽師匠がいてくれました。どれだけ心強かったかわかりません。師匠が帰って来たら、あれもしたいこれもしたいとずっと思っていたことが、もう叶えられないんだと思うと寂し過ぎます。時に兄のような存在であり、落語の大先輩であり。たくさんの教えを受けました。まだまだやり残したことがたくさんあると思います。少しでも円楽師匠の想いを繋いで行けたらと思っています。大好きでした円楽っち!はやすぎますよ!もっと一緒にいたかったです」。

 

林家三平さんは自身のツイッターで、
「円楽師匠のご逝去の突然の知らせに、驚きすぎて、悲しみで、言葉が見つかりません。心よりお悔やみ申し上げます」
と投稿しました。

 

三遊亭円楽さんが長年出演してきた日本テレビの人気番組「笑点」の福田一寛 プロデューサーがコメントを出し、
「これまで何度も病気を乗り越えられ、不死鳥のように復活されてましたので、今回も、いつかは笑点の舞台に復帰されると信じておりましたが、その願い叶わず本当に残念です。
時には厳しく、あえて嫌われ役になって番組を支えていただき、感謝の念に堪えません。
安らかにお休みください」
と死を悼みました。

 

日本テレビによりますと円楽さんは、1977年に三遊亭楽太郎として笑点のメンバーとなり、その後、45年に渡って出演していたということで、ことし1月30日の放送が最後の大喜利の出演になったということです。

 

38年前、円楽さんに弟子入りし、その後も交流を続けてきたタレントの伊集院光さんは
「17歳の時に学校にも行かず、ふらふらしていた時分に、師匠に拾っていただき、人間にしてもらいました。
その後、古典落語の道を諦め、紆余曲折あったものの『お前が俺を尊敬してるうちは弟子を名乗ったらいいさ』と温かい言葉をいただき、師弟関係を続けさせていただきました。
この文章を大人としてきちんとした定番の追悼の言葉でしめるべきなのでしょうが、まだ頭の中が整理できず、まとめることができません。
もう少し心の中で師匠と会話をしてから、いろいろ話させてください」
などと、所属事務所を通じてコメントを発表しました。

 

三遊亭円楽さんが亡くなったことについて、上方落語協会の笑福亭仁智会長は、
「突然のことで驚いています。
博多落語会の楽屋で、落語会をひとつにするとさらりと私にお話されてびっくりしたことを覚えています。
まだまだ落語会のためにいていただきたかったのに残念です。
心よりご冥福をお祈りいたします」
というコメントを出しました。

 

三遊亭円楽さんは、横浜市中区にある大衆芸能の専門劇場「横浜にぎわい座」で、20年前から、毎月のように、寄席や独演会に出演していました。

 

ことし1月に、脳梗塞で入院し、退院したあとは休んでいましたが、先月、東京 千代田区の国立演芸場で7か月ぶりに高座に復帰した時には、その2日前に「横浜にぎわい座」でリハーサルを行っていたということです。

 

「横浜にぎわい座」の布目英一館長は
「仕事に対する責任感が強く、絶対にまた復活してくれると信じていたので本当に残念です。
先月、最後にお会いした時にも、また独演会をやりたいねと言ってくれて、スタッフ全員においしいあんぱんを振る舞ってくれました。
最後まで朗らかで強い人だったと思います。円楽師匠の笑顔や仕事に厳しい姿は忘れません」
と話していました。

 

人気落語家の三遊亭円楽さんが亡くなったことを受け、出演していた東京の寄席「新宿末廣亭」の前には午後7時すぎ円楽さんの名前が書かれた木の札が置かれました。

 

61歳の会社員の男性は「先ほどインターネットで円楽さんが亡くなったことを知って新宿末廣亭に来ました。とても残念です」と話していました。

 

別の61歳の会社員の男性は「新宿末廣亭で円楽さんの落語を見たことがあります。新宿の居酒屋でたまたま見かけたこともあり、若手の落語家を連れていて、後輩思いで優しい方だと思いました。もう一度見たかったので本当に残念です」と話していました。

 

19歳の女子大学生は「小さいころからテレビで見ていたので残念です。笑顔がすてきな方でした」と話していました。

 

72歳の女性は「人を笑わせる才能があり、優しいオーラがある方だったと思います。今後の日本の落語が変わると思います」と話していました。