長澤まさみ(35)主演の連続ドラマ「エルピス-希望、あるいは災い-」(フジテレビ系、月曜午後10時)が話題だ。
その理由の1つは、日本の連ドラとしては珍しく、社会批判色が濃厚だから。
ストーリーは軽快に進み、クスリと笑わせてくれる場面もあるが、ズシリと重たいメッセージが散りばめられている。
主人公は長澤が演じる大洋テレビのアナウンサー・浅川恵那。
2002年から2006年にかけて神奈川県内で起きた連続女性殺人事件の真相を追っている。
元板金工の松本良夫(片岡正二郎[60])が犯人とされ、死刑が確定しているが、恵那は冤罪だと信じている。
冤罪を扱ったドラマは過去にいくつもあった。
珍しくない。
だが、脚本を書いている渡辺あやさん(52)は冤罪を晴らそうとする恵那の姿を通じ、マスコミ、警察、司法、政治の暗部も浮かび上がらせようとしている。
ひいては古くからある日本独特の問題点まで描写。
ここまで社会批判色が濃厚な連ドラは滅多にない。
恵那は第2話で松本の担当弁護士・木村卓(六角精児[60])にこう打ち明けた。
「自分があたかも事実だと伝えてきたことの中に、本当の真実がどれだけあったのかと思うと、苦しくて、苦しくて、息が詰まりそうになります」(恵那)
その後、恵那は回想する。
2011年3月の福島第1原発の事故時に、自分がついてしまったウソだ。
1号機が水素爆発した際、原発専門家による「爆破弁であり、問題なし」という解説に同調してしまった。
まったくのフィクションではない。
似たことが日本テレビで起きた。
水素爆発後、有冨正憲・東京工業大原子炉工学研究所所長(現名誉教授)の言葉として、「爆破弁を作動させたことによる水蒸気」であると放送した。
渡辺さんによる痛烈なマスコミ批判だ。
もっとも、矛先が向けられているのはマスコミだけではない。
恵那が真実を伝えられなかった最大の理由が、空気に負けたことにあるからだ。
原発専門家の危うさは当初から多くの人が薄々気づいていた。
恵那もそうだったはず。
だが、それを口にすると、会社や世間から、「空気を読め」と責められる可能性がある。以前の恵那はそれを恐れた。
恵那に限らない。
空気を意識し、それに逆らうまいとするのは日本人全般の特徴だ。
山本七平はロングセラー『「空気」の研究』(文春文庫)で「日本人の思考と行動は空気という妖怪に支配されている」と指摘した。
無謀極まりなかった戦争を止められなかったことなど全ての最終決定権は空気が持つと論じた。
渡辺さんが描こうとしている日本の問題点も空気だ。
なので、恵那は頻繁に「空気」と口にする。
「空気って、どうやったら読まないでいられるんだろ」(恵那、第3話)
会社や世間の空気を読むことを止めないと、「本当の真実」を伝えられないと恵那は考えている。
恵那の担当番組は深夜の情報バラエティ「フライデーボンボン」だ。
元カレで現在は官邸キャップの斎藤正一(鈴木亮平[39])との路チュー写真を週刊誌に撮られてしまい、それが基で看板ニュース番組から左遷させられた。
路チューと左遷で恵那はダメになったと世間に見られていたが、本人は第2話で斎藤にこう漏らす。
「私はあのずっと前からダメになっていたんです」(恵那)
恵那は2008年の入社時には「信頼されるキャスターになりたい」(第2話)と思っていたものの、すっかり忘れ、空気に支配されていた。
だが、もう違う。
変わろうとしている。
松本の無罪の証明に奔走するのも目標だった「信頼されるキャスター」になろうとしているからだ。
第3話のラストで恵那は驚くべき行動に出た。
自分で取材した冤罪特集のビデオを「フライデーボンボン」で勝手に放送してしまったのだ。
もっとも、恵那は大したお咎めを受けないだろう。
一番悪いのはアナが独断でビデオを流せる体制にしていたチーフプロデューサーの村井喬一(岡部たかし[50])なのだから。
なにより、恵那の処分は視聴者が許さない。
恵那は「正しいことなら味方は勝手に付いてくる」(第3話)と自分に言い聞かせるように話していたが、その通りになるに違いない。この言葉は今後もキーワードになるはずだ。
恵那には相棒がいる。
「フライデーボンボン」の若手ディレクター・岸本拓朗(眞栄田郷敦[22])である。
好青年だが、びっくりするほど空気が読めない。
だが、この拓朗の人物造形は渡辺さんのこだわりにほかならないだろう。
空気を読む組織、社会を批判するため、空気の読めない拓朗を用意したのだ。
いわば拓朗は狂言回しである。
警察も空気に支配され、先輩刑事たちが逮捕した松本の有罪を、現職刑事の平川勉(安井順平[48])は信じて疑わない。
しかし、拓朗は平川に食ってかかった。
「判決が間違っている可能性もあるじゃないですか」(第3話)。
この言葉に平川はあきれた。
恵那も驚いた表情を見せた。
一般的な反応だ。
もっとも、拓朗の言葉こそ正論にほかならない。
裁判官たちは過去に何度も間違えているのだから。
おそらく拓朗の言葉には渡辺さんの思いが込められている。
タイトルの「エルピス」とは「パンドラの箱(壺)」に唯一残されていたものなのは既に知られている通り。
それが「希望」なのか「災い」なのかは学説が分かれている。
この作品が最終的に「希望説」を取るとしたら、その1つは拓朗ら若い世代の中から、空気を読まずに行動する人間が次々と出てくるということではないか。
「災い」説を取るのだとしたら、その中心人物になりそうなのが元カレ・斎藤である。
第2話。
斎藤は2006年に14歳の中学生・井川晴美(葉山さら[16])が殺された事件について、「捜査のごく初期の段階で割と重視された目撃証言があった」と恵那に教えた。
その証言によると、晴美と一緒にいた男は当時20代くらいで、長髪、長身。
2人とも笑顔で死体遺棄現場の八頭尾山に向かったという。
この時点まで斎藤は恵那たちに協力的に見えた。
ところが、第3話になって、恵那たちの取材が進むと、斎藤はハードルを上げる。
「遺族(のインタビュー)は取れたか?」。
放送させたくないようだ。
この言葉に恵那が発憤し、井川晴美の姉・純夏(木竜麻生[28])の取材を実現させると、斎藤は恵那の家に突然やってくる。
「どうしても話したいことがあって」(斎藤)
しかし、恵那のビデオが放送不適切になったことを知ると、恵那との情事だけ済ませ、何も言わずに帰る。
直後に斎藤が会ったのが副総理で元警察庁長官の大門雄二(山路和弘[68])だったことを考えると、恵那に放送見合わせを迫るつもりだったのだろう。
もっとも、恵那は独断で放送するのだが――。
連続殺人の第1容疑者は路地裏商店街でアンティークショップを営む長髪の男(永山瑛太)だろう。
井川晴美殺害前に目撃された男と条件が一致する。
晴美の家とショップは近所だから、以前から知り合いだった可能性があり、そうなると笑顔で一緒に歩いていても不思議ではない。
犯人はこの男で決まりではないか。
「それでは簡単すぎる」と拍子抜けする向きもあるだろうが、冤罪を晴らす際に一番難しいのは動かぬ証拠を見つけ、さらに裁判所に間違いを認めさせること。
途方もなくハードルが高い。
そもそも、この作品は謎解きをメインテーマとしていないはずだ。
組織や社会の問題点をスケッチし、同時に恵那が「本当の真実」を伝えられる人になれるかどうかが描かれる。
この作品の構成は独特。その1つはナレーションを拓朗と恵那が交互に担当していること。
第1話は拓朗で、第2話は恵那、第3話は再び拓朗だった。
これにより、2人の相手に言えぬ内面、冤罪取材への思いの差異が鮮明になっている。
渡辺さんの執筆作業は大変だろうが、観る側としては物語が立体化して面白い。
胸を衝かれるセリフを助演者に言わせることが多いのも特徴である。
拓朗が出席した学友の結婚式の後、やはり学友の悠介(斉藤天鼓[23])はこう口にした。
「何も考えず、悩まず、ハナを効かせ、長いものに巻かれる。それが人生に勝つということなんです。どうやら……」(悠介)
渡辺さんのメッセージは重い。