T.C.R横浜銀蠅R.Sのリーダー・嵐ヨシユキ(本名・田宮淑行=たみや・よしゆき)さんが4日午前10時46分、神奈川県内の病院で、肺炎のため亡くなったことが11日分かった。
かねてより病気療養中だったという。67歳。神奈川県出身。
葬儀は、遺族の意向で近親者のみで10日に執り行ったという。
「お別れの会」等については、新型コロナウイルスの感染状況を踏まえて、後日決めるとしている。
嵐さんは、4人ロックバンド・横浜銀蠅でリーダーとドラムスを務め、1980年にデビューすると、独特の「ツッパリ」スタイルと「ツッパリHigh School Rock’n Roll」などが大ヒットし、一世を風靡(ふうび)した。
83年に一度解散も、98年活動を再開した。
一方、2001年の参院選で自由連合から出馬も落選。
04年には脳梗塞で入院し、手術するなどした。
4月17日に横浜市内で行われた「再起動!T.C.R横浜銀蠅R.S~Get BACK 2022~」(嵐67生誕祭)が最後のライブ出演となった。
【事務所コメント全文】
T.C.R.横浜銀蝿R.S. リーダー 嵐 ヨシユキ に関してのお知らせ
日頃よりT.C.R.横浜銀蝿R.S.への多大なご支援、
誠にありがとうございます。
リーダー 嵐 ヨシユキ(本名:田宮淑行)が
令和4年7月4日にかねてより病気療養中のところ、
永眠いたしました。(病名 肺炎 享年67歳))
ここに故人のご冥福をお祈りし、謹んでお知らせ申し上げます。
尚、ご遺族の意向によりご葬儀に関しましては近親者のみにて
過日、しめやかに執り行わせていただきました。
【翔 コメント】
兄貴、早過ぎるよ
まだまだ一緒にステージでロックンロールしたかった
悲しいよ
未だに受け入れられてないけど 受け入れないとね
兄貴 ずっとありがとう
約束通り
生涯現役
貫いたね
ゆっくり休んで下さい
横浜銀蝿 翔
【Johnny コメント】
無敵の嵐さんが7月4日永眠されました。
嵐さんとは、17歳の時マブダチの翔くんの兄貴として出会いました。
3学年先輩ですが、年の差以上にでっかい人でした。
嵐さんは無敵でした。馬力があり、何事にも動じない、怯まない、あきらめない、
この人についていけば大丈夫だと思えるようなでっかい人でした。
横浜銀蝿のアマチュア時代、何回も何回もオーディションに落ちても嵐さんだけは
メジャーデビューすることを絶対あきらめませんでした。
デビュー後も、補欠ギリギリでデビューしたようなバンドが、
いきなり「2年間でオリコンシングル1位、オリコンアルバム1位、武道館満タン」
という3つの大きな目標を掲げ、それを本当に実現していきました。
嵐さんと出会い、嵐さんと一緒に夢を追いかけて 努力する大切さ、諦めない心、
目標を達成する喜びを教わりました。
嵐さんと出会っていなければ音楽が一生の仕事にはなってなかったと思います。結成40周年になる2020年、三十数年ぶりに裏方から表舞台に戻り2年間、
嵐さん、翔くん、TAKUと一緒に横浜銀蝿40thとしてオリジナルメンバー4人で音楽を奏でました。
嵐さんの体調は万全ではないと聞いていたのですが、やっぱり嵐さんは無敵でした。
2年間ほぼ全ステージ、ドラムに座り楽しそうに音楽を奏でました。
透析をしてのライブのしんどさは想像を絶するはずですが、
いつも大丈夫、大丈夫と言って決して泣き言は言いませんでした。嵐さん、天国では大丈夫、大丈夫と無理はしないでくださいね。
安らかにお眠りください。
Johnny
【TAKU コメント】
俺のキャリアのすべては、
18歳の時に見ず知らずの嵐さんからもらった
一本の電話から始まりました。以来40有余年、
バンドリーダー、そして男として常に前を走り、
俺をひっぱり続けてきてくれた嵐さん。免許とって最初に中古車を買いにいった時、
付き添って値切り交渉してくれたのも嵐さん。
そして芸能界のドアを強引にこじあけてくれたのも嵐さん。だから、俺の観てきた景色にはいつも、
嵐さんのテールランプが光っていて、
今日まで俺はそのテールを追いかけ、
遅れないよう必死で走り続けてきました。お互い還暦をすぎた頃から、
決して埋まることのない先輩後輩の間柄の中にも、
同じ時代を生きてきた同志的な感覚が芽生えてきて、
ようやくこれからは、お互いちょっと楽しながら、
一緒に可愛いおじいちゃんをめざせるかなとか思ってましたが、
残念ながら嵐さんは、全然可愛くないおじいちゃんのまま
いきなり旅立ってしまいました。まさに文字通りの「生涯現役」
もうここずっと大好きな車の運転ができなかった嵐さん。
でもきっと今ごろ、またあの赤いGTOで
天国の第三京浜かっ飛ばしてると思います。ねぇ嵐さん
横浜銀蝿 TAKU