悲鳴にも似た歓声とどよめきに包まれながら、暗転したリンクの上で、羽生結弦(28才)がゆっくりとスピンを始めた。
彼にスポットライトが当たると、会場の熱気は一気に最高潮に──。
5月26日の千葉・幕張公演を皮切りに、6月25日の神戸公演で最終日を迎える「ファンタジー・オン・アイス2023」に参加している羽生。
2022年7月に競技会からの引退を表明して以降、プロとしてファンを魅了し続けている羽生だが、一方で窮地に追い込まれているのが国際スケート連盟(以下・ISU)だ。
6月2日、ISUが2022年の収支報告書を公開した。
それによると2022年の収支は前年比較で約27億円悪化。
その理由のひとつとして書かれていたのは、次のような意味深な内容だった──。
《最も人気のある日本人フィギュアスケーターが競技から引退したことも、この問題をより一層悪化させている》
異例の収支報告書を受けて、スケート業界に激震が走っている。
「ISUの収支報告書は毎年似通ったものなのですが、今回は明らかに例年とは異なっていた。
それはスケート業界の“不振”にはっきりと言及している点です。
名前こそ隠していますが、引退した日本人フィギュアスケーターが羽生さんであることは一目瞭然。
過去の報告書では、個人に言及した部分は一切ありません」(フィギュアスケート関係者)
ISUは収支悪化の要因として、4つの理由を挙げている。
1つめは、ロシア選手の大会不参加により、ロシアからの放映権料と広告収入がなくなったこと。
2つめに、コロナ禍の景気低迷によりスポンサー集めに苦戦していること。
3つめに、広告がテレビからウェブにシフトするなかで対応が不充分であることなどを挙げた。
最後に羽生の引退という“スター不在”が、こうした収入面の低迷をより悪化させているとしている。
「実際に“羽生引退後”のスケート業界は激変しています」と渋い顔で話すのは、前出のフィギュアスケート関係者だ。
「今年3月の世界選手権は4年ぶりに、さいたまスーパーアリーナで開催されました。
当然、連日の満員を期待していましたが、日によっては空席がかなり目立ちました」
あるフィギュアスケートファンも言う。
「ゆづ(羽生)がいた頃は、全然チケットが当たらなかった。
最近は優良席でさえすごく取りやすくなったので驚いています。
スタンドの後ろ半分はガラガラの状態のこともあります」
また、テレビの放映権も、羽生がいた頃といまでは様変わりしているという。
「羽生さんが競技をしていた頃は、各社で激しい争奪戦が繰り広げられていました。
日本のテレビ局は1年間で10億円以上の放映権料を支払っていたといわれていて、ISUが得ていた放映権料のうち約4割は日本が占めていたとの試算もあるほどです」(テレビ局関係者)
だが、放映権料を左右する視聴率も、羽生の引退を境に状況は一変した。
たとえばNHK杯は、羽生が優勝した2019年にはフリーで14.5%を記録したが、羽生が欠場した2020年以降は1ケタ台の低空飛行が続く。
別のフィギュアスケート関係者が嘆く。
「羽生さんがNHK杯で優勝した2015年は、ゴールデンタイム前の16時~18時45分の放送枠だったにもかかわらず、18%という驚異的な数字を叩き出しました。
羽生さんが出ない試合は、全日本選手権でも世界選手権でも視聴率はガクンと下がり、当時、彼の“出欠”はテレビ局にとって死活問題でした。
引退したいまとなっては、もう視聴率アップは期待できず、放映権の支払いも激減しているでしょう」
世界選手権のスポンサー数も、羽生が初優勝した2014年の14社がピークで、羽生が出場しなかった2022年は8社、2023年には7社にまで落ち込んだ。
「羽生さんのライバルだったネイサン・チェン選手(24才)も2年間は学業に専念することを宣言。
世界選手権2連覇の坂本花織選手(23才)や宇野昌磨選手(25才)、次世代エースと目されている鍵山優真選手(20才)も頑張ってはいますが、羽生時代のようなフィギュア人気を生み出すほどのスター選手がいないのが現状なのです」(前出・フィギュアスケート関係者)
プロスケーターとしての羽生について、羽生の元コーチの都築章一郎さんはこう話す。
「引退後も新しいことに次から次へと挑戦し続けるなかで、プロとしての羽生結弦という存在感が、世界中で話題になっています。
ISUもその大きさを改めて感じているのではないでしょうか。
私は彼が小さい頃から、“挑戦すること”の意義を話し続けてきましたが、引退後も新しいプロの世界を作り上げている姿には、感心するばかりです」
今年2月の東京ドームでの単独公演は最も安いA席でも2万3100円。
それが完売した。チケット収入10億円とグッズ売り上げ10億円を合わせると、羽生はたった1日で20億円を稼ぎ出したことになる。
こうしたプロ転向後の目覚ましい活躍をISUはどんな思いで見ているのか。
現役時代、羽生はISUとの“確執“が幾度となく報じられていた。
「羽生さんが4回転アクセルへの挑戦を宣言した途端に、その基礎点が下がったり、羽生さんが高得点をとっていた演技構成点の項目がカットされるなど、彼に不利となるルール改正が何度もあった。
一部ファンの間では“露骨な羽生いじめではないか”と話題になったほどです」(前出・別のフィギュアスケート関係者)
実際、羽生自身は引退会見の直後のインタビューで、自分の努力や評価がスコアに結びつかない現実に、このような思いを吐露していた。
「『自分って必要とされていないのかな』『羽生結弦、早く引退しろと言われているのかな』と思った時期もあって……つらいこともありました」
一方、羽生は自身でスケートの可能性についても向き合っていた。
2021年に公開された早稲田大学人間科学部の卒論で、羽生はモーションキャプチャを自分の体に装着して実験を行い、AI採点の可能性を論じた。
内容は、「現ジャッジシステムでは稚拙なジャンプを判定できない」「評価は非常に曖昧」など、人の目による審判という現行のシステムに疑問を呈するものだった。
それに追随するかのように、ISUは、2021年5月に公開した2020年の収支報告書で、AI採点の導入について初めて言及した。
「羽生さんにせっつかれる形で、ようやくISUが重い腰を上げたといえます。
羽生さんは現役時代、ずっと公正な採点を望み続けていました。
ISUは彼の引退間近になって検討し始めましたが、時すでに遅しです」(前出・フィギュアスケート関係者)
トップ選手が引退すれば新たな選手がトップになってフィギュア人気を支える──
これまでフィギュアスケート界では、こうした循環が繰り返され、ISUはこれからも続くと思っていたに違いない。
だが、“羽生ロス”はそんな想像を遥かに超えた。
“逃した魚”の大きさに焦りさえ感じさせるISUの収支報告書を尻目に、羽生はプロとして、大海を悠々と泳ぎ続ける──。