細田守監督の『竜とそばかすの姫』が3週連続で興行ランキング首位を獲得した。
細田作品の中でも、とりわけ壮大なヴィジュアルや、これまでにない歌唱シーンなどが話題を呼び、現在も好調に成績を伸ばしている。

 

だが本作は同時に、少なくない観客が違和感を表明している作品でもある。
ここでは、その“違和感”とは何なのか、そして、その奥に潜むものの正体を考えていきたい。

 

本作の主人公は、高知県の田舎町に住んでいる、17歳の女子高生、内藤鈴(すず)。
彼女は友人に招待されて、世界中の人々が利用する仮想世界“U”にアクセスする。
現実では平凡な鈴だが、“U”の中では、まるでお姫様のような姿となり、幼少期に母を亡くしてから出せなくなった歌声を披露できるようになるのだった。
彼女は秀でた歌唱力でカリスマ的な人気を獲得。
鈴は、“Belle(ベル)”として、正体を知られぬまま世界的なアーティストになっていく……。

 

主人公の鈴/Belleを演じ、声優初出演にして初主演となったのは、気鋭のシンガーソングライター、中村佳穂だ。
本作で彼女は、音楽を担当するKing Gnuの常田大希を中心とした音楽集団millennium paradeにヴォーカルとして加わり、劇中歌を歌っている。

 

仮想世界のデザインのために海外のクリエイターを探したり、さらには『アナと雪の女王』シリーズなどで感情豊かなキャラクターを創造してきたジン・キムにBelleのデザインを依頼し、ディズニーの劇場アニメーション『美女と野獣』(1991年)をオマージュするシーンを用意するなど、本作は音楽、ヴィジュアルともに細田作品のなかでも異色なテイストで、これまでの日本のアニメーションが表現してこなかった見せ場を作ることに成功している。

 

問題は、せっかく力を入れたヴィジュアルや歌声が、映画のなかでそれほど機能しているとは思いづらい点である。
キャラクターたちが涙を流しながらBelleの歌唱を応援するウェットなシーンは、どこか上滑りしていて、観客の感情を盛り上げられていないように感じるのだ。
その一因は、このシーンに至るまでに、鈴/Belleの葛藤に感情移入する描写が不足しているためだ。
つまり、脚本の内容が不十分なのである。

 

細田作品では、『時をかける少女』(2006年)以降、脚本家の奥寺佐渡子が脚本を担当し、オリジナルストーリーを練り上げようとする監督をサポートしてきた。
そして作品ごとに脚本執筆のウェイトは細田監督の方に移っていき、現在は細田監督の一人体制となっている。
そんな奥寺から細田へ委譲の流れと同期するように、細田作品の物語の質は落ちていったのだ。

 

本作もまた、多くの観客が脚本について、整合性やリアリティに欠けていることを指摘している。
それには、細田監督が単に脚本家としての力が不足している以外の理由もあるのではないだろうか。

 

その理由を突きとめるために、観客の間で最も疑問が発生していると考えられる、本作のクライマックス周辺の展開を例にとって、ここからは、脚本から感じ取れる細田作品の問題の核にあるものが何なのかを考えていきたい。
その過程で、本作の結末に至る展開を明かすので、知りたくない読者は注意してほしい。

 

鈴は仮想空間の探索によって、父親から現実の世界で日常的に暴力的な虐待を受けている少年が東京にいることを突き止める。
かつて目の当たりにした母親の犠牲的な精神にも促(うなが)され、鈴は少年を助けようと交通機関を利用して、単身で東京へと向かうことにする。

 

ここで論点となるのが、なぜ鈴が一人で行動しなければならないのかということだ。

 

鈴が虐待の事実を知って助けに行こうとしたときに、周りには大人たちも寄り添っていたし、「鈴を守る」と約束していた幼馴染の同級生も側にいたのだ。
女子高校生といえば、まだ子どもであり、大人の悪意から守られねばならない存在である。

 

先ほどまで涙を流しながら応援していた地元の仲間たちは、そんな彼女が一人で危険に立ち向かおうとするのを、なぜ放っておくのか。
その結果、鈴は実際に暴力を振るわれ、傷を負ってしまうこととなる。
にもかかわらず、本作のラストシーンでは、これらの人々が鈴と一緒になって問題の解決を喜んでいるのだ。

 

なぜ、このような不可解な展開を用意したのだろうか。
それは、細田監督の“女性観”に理由があるのではないか。

 

じつはこれまでの細田作品は、公開の規模が大きくなるにつれて、女性の観客を中心に、劇中の女性の描き方に問題があると指摘されてきているのだ。

 

なかでも最も分かりやすいのが、『おおかみこどもの雨と雪』(2012年)であろう。
この作品では、身を粉にして子育てをする母親の献身を、美しく神々しいものとして理想化して描いていた。
だがそれは、“女性を従来の役割に縛りつける保守的な思想であり、男性特有の身勝手な幻想だ”という意見が挙がったのだ。

 

その文脈で考えれば、鈴が一人で東京に向かったことや、暴力を振るわれて血を流しながら少年の父親をまっすぐに見つめる描写や、その視線に恐れおののいて父親が逃げだす、一見不可解な展開などにも説明がつく。

 

つまり、どんな犠牲を払おうとも、子どもを守らずにはいられない母性というものを、女子高校生であっても本能として持ち合わせていて、そこには一種の神秘的な力が宿っているということだ。
ここでは、そんな細田監督の思想が、一連の物語として結実しているということになる。

 

それは、やはり女性という存在を役割に当てはめることにつながるのではないか。
また現実問題として、高潔な精神や母性を持てば、理不尽な暴力に打ち勝てるかといえば、難しいだろう。そのようなものが通用しないからこそ、世に家庭内暴力が絶えず、社会問題化しているからである。

 

そしてさらなる疑問は、劇中の虐待問題が解決したようにも見えないことだ。鈴の決死の行動によって、日常的に暴力を振るわれている少年は、「僕も闘うよ」と決意を固める。
驚いたことに、それで本作の事件は幕引きとなってしまう。

 

ここで発生するのが、日本で絶えず起きている現実の子どもの虐待問題について、細田監督は実際にはそれほど興味を持っていないのではないかという疑問だ。
それは、『おおかみこどもの雨と雪』同様に、劇中で福祉を役立たないものとして切り捨てていることからも類推することができる。

 

本作は日本の児童相談所の能力を疑問視しておきながら、少年が具体的にどう救済されるかについてまでは描かない。
そのことで、とくに何の救済策も持っていない部外者が、実際に現実の問題に直面し解決に向けて努力している人々を軽視しているように見えてしまうのだ。
そこに、現在の日本の総理大臣が政治理念として強調している「自助」「共助」「公助」という、公的福祉が後ろに下がり、自力救済を望む社会の在り方を示すスローガンや、自己責任論と類似したものを感じると言ったら、穿(うが)ち過ぎであろうか。

 

同様に、仮想世界における警察の役割を担う勢力を一方的に悪役として描いているのにも問題が残る。

 

現実のインターネットは、劇中でも描かれているとおり、偏見や中傷にまみれている状況がある。
だが、本作の脚本は、そういった状況を取り締まるのでなく、Belleの歌に一人ひとりが感動して彼女を後押しするシーンを描くことで決着させているように、最終的にはユーザーの良心を信じ、自治による治安が望まれるという結論に達している。
だが、現実のインターネット空間が、そんな生易しいものではないことは、多くの人が実感しているはずだ。

 

現実の社会におけるSNSの誹謗中傷は、個人の人格を貶めて自殺するまで追い詰めるケースまで発生している。
匿名で活動することが容易な性質も手伝って、差別やデマを振りまく効果的な場になっている事実もある。

 

そんなモラルが著しく低下している状況下で、悪質な匿名ユーザーの行動を実際に止めるためには、法や一定のルールに照らして責任をとらせるしかないはずだ。
本作は、そのような行為を“行き過ぎた正義”としてグロテスクに描いてしまっている。

 

このように本作は、現実の社会問題を題材にとりあげていながら、その描き方は現実と乖離(かいり)した状態にあるといえる部分が少なくない。
脚本の展開が不自然であることや、リアリティを感じにくい原因は、まさにそこにあるのではないか。
そしてその背景には、監督の思想的なこだわりが存在していると思えるのである。

 

『竜とそばかすの姫』は前述したように、様々な分野の才能を借りることで、これまでにない表現を達成することになったのは確かである。
しかし、それらの才能が適材適所に割り当てられる一方で、脚本やテーマはいびつなかたちとなって、全体の機能を滞らせている。
そしてディズニーの『美女と野獣』のイメージを借りながら、その奥にある、女性の自主性を尊重する先進的な思想には到達することができていない。

 

映画は社会と連動し、時代のなかで進化してきている。
女性を主人公として、虐待やネットのモラルの低下など、現在のシリアスな社会問題を扱った作品を提供するのならば、より新しい社会観、より明晰(めいせき)な現状認識が必要になるはずである。

 

劇中で大きく映し出される、澄みきった夏の青空と湧き上がる入道雲……。
その美しい日本の光景が表面的な“美”に終わらずに、現実の社会で実際に痛みとともに生きている人が、未来の希望を重ねて眺められるものであってほしいのだ。