おだやかな日差しが降り注ぐなか、高校の校庭では体育の授業が行なわれていた。
ソフトボールのティーバッティングを打ち終えた女子生徒が、男性教諭にこう軽口を叩く。
「先生、免許持ってんの?」
男性教諭は「うるさいわ」と軽くいなして、満面の笑みを浮かべた。

 

この前夜、テレビドラマ『下剋上球児』(TBS系)の第2話が放送されたばかりだった。
主演の鈴木亮平が演じる南雲脩司が、教員免許を持たずに高校教師をしていたことを告白。
X(旧Twitter)では「下剋上球児」が2話連続でトレンド世界1位を獲得するほどの話題になった。

 

男性教諭が女子生徒からイジリを受けたのは、ドラマの原案となった書籍に登場する主人公がこの男性教諭、東拓司(ひがし・たくし)だったからだ。
東は2018年夏に白山高校の監督として甲子園初出場に導き、45歳となる今春から昴学園に異動している。

 

ドラマ『下剋上球児』は、ノンフィクション書籍『下剋上球児 三重県立白山高校、甲子園までのミラクル』(カンゼン)を原案としているが、あくまでもフィクションのオリジナルストーリーである。
現実には、東は大阪体育大を卒業し、教員免許を取得したうえで三重県の教員採用試験を突破。
高校の体育教諭として勤務している。

 

ドラマはオリジナルストーリーとはいえ、登場人物の「設定」について東は事前にドラマスタッフから丁寧に説明を受けていた。
「ドラマが盛り上がって、原案の本を読んでくれる人が増えてくれたらいいですよ」と東は笑顔で語った。

 

ドラマを見た視聴者から「東監督は教員免許を持っていないのか?」という反響が寄せられることはなかったのか。
昴学園野球部関係者に尋ねると、前監督で現在も指導に携わる高橋賢はこう答えた。

「いつもお世話になっている近所の食堂のおかみさんから『東先生、免許ないの!?』ってあわてた様子で電話がありましたけど、今のところそれくらいですね。学校に苦情が来ることもないです」

 

東、高橋とともにその食堂『月壺』に昼食をとりにいくと、店主の大森久美子さんが「先生、昨日は焦りましたわ〜!」と笑顔で迎えてくれた。
店内に居合わせた客からは「『下剋上球児』の東先生ですか?」と声をかけられ、写真撮影に応じるシーンもあった。
東の周辺ではちょっとした「下剋上球児ブーム」が起きている。

 

2018年夏に甲子園出場したあとも、東は白山を三重県大会ベスト4、ベスト8に頻繁に顔を出すチームへと育て上げていた。
それでも、異動願を出して昴学園へと転任したのには理由がある。

 

昴学園は三重県の公立高校だが、その中身はかなり特殊でユニークだ。
「全国唯一の県立で全寮制の総合学科高等学校」を謳い、1学年定員80名の生徒のほとんどが寮で生活する。

 

昴学園があるのは三重県南西部の多気郡大台町。
町全域が生物多様性の保護を目的としたユネスコエコパークに登録されている。
校舎のすぐ脇に流れる一級河川の宮川は、水面に雲が映るほど美しい清流だ。
町の面積の9割を森林が占めており、昴学園の校庭から四方を見渡すと緑が常に視界に入ってくる。

 

東にとって、この自然豊かな環境は教員としての原点だった。

「大学を出た後、母校の久居高校で講師をしながら野球部のコーチをしていたんですけど、5年も教員採用試験に受からなかったんです。
『このままじゃダメだ』と思っていたところで、昴学園に勤めていた竹内伸さん(現・松阪監督)が声をかけてくれて。
ここで寮監をしながら勉強して、絶対に受かるんやと思っていました」

 

教員住宅の部屋に持ち込んだのは、机と勉強用の書籍くらい。
テレビもない環境で勉強に打ち込んだ。
夜な夜なひとりで食べたラーメンの味が忘れられないという。
同年に東は教員採用試験に合格している。

 

白山は10年連続で夏の三重大会初戦敗退の弱小校だったが、昴学園はそれを上回る。
東が寮監兼野球部コーチとして勤めた2006年夏に1勝を挙げたのを最後に、昴学園は16年連続で夏の三重大会初戦敗退を続けていたのだ。
それでもなぜ、東は昴学園に異動したのか。

「周りからは『なんで昴学園に行くんや?』とよく言われましたけど、『大台町に恩返ししたい』という思いがありました。
5年前になんで白山が甲子園に行けたのかはいまだにわからないですけど、もう1回行くことで『まぐれやない』と証明したいんです」

 

幸いにして、白山時代とは違い「ゼロからのスタート」というわけではない。
5年前に昴学園に赴任した高橋が、悪戦苦闘しながらチームづくりを進めていたからだ。
高橋は東の初任校だった上野高時代の教え子でもある。

 

高橋はこんな苦労話を語ってくれた。

「野球部員5人と助っ人7人を呼んで大会に出たら、野球部員の5人中4人が熱中症で倒れて、どんどん救急車で運ばれていきました。
『迷惑かけて申し訳ないし、大会に出やんほうがええんちゃうか?』と思うこともあって。
真面目に一生懸命やる子もいるんですけど、ヤンチャな子や練習しない子もいて、なかなかうまくいかない時期も長かったです。
毎日、やる気の出ない子らを『どうやってやる気にさせるか?』と考えていましたね」

 

高橋を支えたのは、現実に奇跡を起こした『下剋上球児』だった。
しょっちゅう恩師の東に電話でアドバイスを求め、白山と練習試合を組んでは「元気をもらっていた」と振り返る。
東が赴任した今年も夏までは高橋が指揮を執り、17年ぶりの三重大会勝利へと導いている。
現在の部員数は2年生13人、1年生19人、マネージャー2人、計34人と活気が出てきた。

 

野球部のグラウンドはバックネットを隔てて道路が走っており、地域住民も通りかかる。
東は「地域の方から『若い子が挨拶してくれて、こっちも元気をもらえる』と褒めてもらえました」とうれしそうに語った。
地域には後援組織である「昴学園野球部を応援する会」が立ち上がり、そのメンバーは200名を超えている。

 

大台町の町民にとっても、昴学園野球部は地域の存亡をかけた希望の光である。
大台町の大森正信町長は危機感をあらわにする。

「地域から学校がなくなれば、過疎化は余計に加速していきます。
昴学園には県内外から生徒が来てくれますが、大台町の自然のよさを知ってもらって、卒業後に少しでも町に残ってくれたらありがたいですね」

 

高校野球界では越境入学生が多い野球部のことを「ガイジン部隊」などと揶揄する風潮もあった。
だが、少子高齢化、過疎化が進む現代では、地方の公立校でも存続の危機にさらされている。
自治体をあげて県内外から生徒を募り、関係人口を増やそうという取り組みが全国的に広がっている。

 

大森町長に「県外出身の生徒が入ってくることに地域住民の抵抗感はありませんか?」と尋ねると、「まったくありません」という答えが返ってきた。

「練習試合にはたくさんの人が集まって、野球部を応援していますよ」

 

大森町長は昴学園の前身・荻原高校出身でもあり、高橋監督時代から熱心に野球部を応援してきた。
公式戦にも頻繁に足を運び、夏の公式戦1勝にも快哉を叫んだ。
東監督が指導する現チームについては、「もうひとりいいピッチャーがいたら楽しみなんやけど」と分析して笑った。

 

1年生エースの河田虎優希(こうき)は愛知県一宮市出身。
愛知木曽川ベースボールクラブ(ポニー)では投手兼外野手として活躍し、強豪私立から誘いの声もあった。
それでも「昴学園の歴史を変えたい」と強い意志を持って進学している。
大台町の町民とすれ違うたび、「頑張れよ」「頼んだよ」と声をかけられる河田はこんな思いを語った。

「試合でも応援してもらえるので、『めっちゃ頑張ろう!』と思えます。
実力を上げて、粘り勝つ野球で甲子園に行きたいです」

 

ユネスコエコパークから甲子園へ──。
町をあげて夢に突き進む昴学園野球部に、強力な”援軍”が現れた。
2018年夏の三重大会決勝で白山と甲子園切符をかけて戦った松阪商の元監督・冨山悦敬(よしたか)が、コーチとして昴学園を指導しているのだ。

「ここは白山より山奥やけど、それをプラスに換えなあかん。
三重の県立で全寮制はここだけやし、野球をする環境としては強みになるんやから」

 

冨山悦敬はそう言って、グラウンドの部員たちに視線を向けた。
時に拡声器を構え、気になることがあれば選手に指示を飛ばす。
その姿は、とても来年で古希を迎えるとは思えない。

 

69歳の冨山は現在、昴学園の野球部でコーチを務めている。監督の東拓司とは、かねてより因縁があった。

 

2018年夏、三重大会決勝戦を戦ったのは白山と松阪商だった。
白山は2016年まで10年連続で夏の三重大会初戦敗退だった弱小校。
一方の松阪商は春2回、夏2回の甲子園出場を誇る古豪。
白山が菰野、海星といった強豪を撃破して勝ち上がったのに対し、松阪商は同年春のセンバツベスト4に進出した三重や、シード校のいなべ総合学園を倒して決勝戦に進出していた。

 

松阪商を指揮したのが冨山だった。
当時64歳の冨山にとって、この試合は監督として甲子園に出場する最大のチャンスと言ってよかった。
だが、試合開始直前に主将で精神的支柱の大野凌児(前・徳島インディゴソックス)が腰痛のため負傷退場。
浮き足立った守備陣のミスも響き、試合は2対8で敗れた。

 

当時、冨山は達観した様子でこう漏らしている。

「俺にとったら最後の甲子園のチャンスやろうけど、まあそういうもんやで。
2年前は大人と子どもくらい差があったのが、少しずつ差が縮まってきて、『そろそろヤバいな』と感じとったから。
白山の3年生は経験値があるし、突如強くなったわけではない。
みんな奇跡と言うやろうけど、こういうことが起きる要素はあった。
それに『東くんでよかった』という思いもありましたよ。
進学校から底辺校に来て優勝するんやから、考えられへん。そら祝福するわね」

 

一方、白山監督の東にとって冨山は、赴任当初の弱小時代から練習試合を受けてくれた恩人だった。
白山が20点差で負けようと、冨山は嫌な顔ひとつせず胸を貸し続けてくれた。
東が率いる白山は実戦経験を重視しており、松阪商のようにハイレベルなチームとの練習試合は大きな糧になっていた。
東からすると「松商にはずっと負けていたのに、最後だけ勝ってしまった」という実感があった。

 

翌夏を最後に冨山は松阪商の監督を勇退。
その後は外部コーチとして松阪商や白山の指導にあたった。
冨山は白山町に自宅があり、よく白山のグラウンドに顔を出していたのだ。
当時、冨山は「東くんとは野球に対する考え方も似てるしな」と語っていた。

 

今年4月に東が昴学園に異動すると、冨山もまた野球部のコーチに就任した。
2018年夏の三重大会決勝戦を戦った両監督が今やタッグを組み、深い森に覆われた昴学園で甲子園を目指しているのだ。

 

冨山にとって昴学園がある大台町は故郷でもある。
現在は廃校になった宮川高校を卒業しており、今も実家が大台町にある。

「生徒が授業を受けている午前中は、宮川の川べりで椅子に座って本を読んでるんや。
頑張ってる選手を見ていると、元気をもらえますよ」

 

昴学園は全国唯一の公立で全寮制の総合学科高校。
1学年あたりの定員は80名と少ないものの、寮生活を通して強化できるメリットがある。

 

県外からの越境入学生も多いとはいえ、そのレベルはまだ高いとは言えない。
主将で正捕手を務める2年生の青木大斗は愛知・知多東浦シニアの出身だが、中学時代は2番手捕手だった。
青木は「今も昔も野球の技術に自信はありません」と苦笑する。

 

昴学園の部員の気質に関して、冨山はこんな感想を漏らした。

「まだまだ白山高校のほうが野球のうまい子は多い。
昴の子はまだ気持ちの爆発力がないというのかな。
でも、『寮に入って、野球を頑張りたい』という覚悟を持った子が多いから、ひと冬越えたら戦えるようになると思います」

 

今年に入って、昴学園は着実に成果を上げている。
前任の高橋賢が監督を務めた今春は地区予選を勝ち上がり、開校以来初の県大会出場。
今夏は三重大会で17年ぶりの勝利を挙げた。
監督が東に交代した今秋は地区予選で2位と躍進。
県大会では2回戦で宇治山田商に2対9で敗戦したものの、ベスト16に進出した。
エースの河田虎優希(こうき)をはじめ1年生の主力選手も多く、地元の期待も高まっている。

 

それでも、冨山は「冷静に見ればまだまだ」とチームを分析する。

「白山の子たちは負けるなかで、どんどんたくましくなっていった。
昴学園は監督が東くんになったからといっても、まだ時間が経っていない。
あとは辛抱せなしゃあないでしょう。
できやんだら、できるまで練習するしかないです」

 

選手を見ていると、「また監督をしたい」という思いは湧いてこないのか。
そう尋ねると、冨山は豪快に笑ってこう答えた。

「今のほうが面白いんですよ。
東くんにブレーキをかけたり、『こいつのほうがええぞ』と言ったりするほうが面白いし、元気をもらえる。
この立場になってみて、チームを客観的に見られるようになったし。
来年70になるけど、頭は今が一番冴えてるで」

 

『下剋上球児 三重県立白山高校、甲子園までのミラクル』(カンゼン)を原案としたドラマが放送され、三重県内ではその話題で持ちきりだ。
冨山は部員に対して厳しく接する東に、冗談めかしてこんな助言を送っているという。

「みんな(鈴木亮平が演じる)南雲先生のイメージで来るやろうから、ちょっと言動を考えなあかんぞ」

 

日が暮れると、あたりに街灯がない昴学園では夜空に浮かぶ星が鮮明に見える。
昴学園の校名は牡牛座にあるプレアデス星団の和名「昴」にちなんでいる。
1995年の開校式には歌手の谷村新司氏が訪れ、自身の代表曲である『昴』をアカペラで歌ったという逸話が残っている。

 

いつか昴が甲子園で輝く日がくることを信じて──。
自然豊かな大台町で『下剋上球児』の第二章が始まっている。